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日語專業未來職業規劃

生活 更新时间:2025-02-03 13:01:08

要問我當初怎麼讀了日語系,我覺得大概是命運的捉弄。高考錄取的時候,第一志願和第二志願都沒考上,就去了當時算是給自己“兜底”的日語專業。說實話,高中時自己對于日本除了日料,其餘都沒有太大興趣。記得大一從零開始學日語,背五十音圖都費了不少勁。剛入門的時候要死記硬背的東西很多,綜合日語第一冊那句“言葉の勉強は日々の努力の積み重ね”,對當時的自己來說就像繞口令一樣,現在還記憶猶新。

大一的時候,老師在課上給我們看NHK的紀錄片《紀實72小時》。借着他們的鏡頭,得以一窺日本的人間百态,紀錄片裡每個人的喜怒哀樂,有時候自己竟也能感同身受。我開始想,每天這樣和枯燥的單詞語法打交道,如果以後能去日本親眼看看日本人的生活是怎樣的話,也值得了。

不過初識日本就不大順利。很奇怪,自己每次去日本都能遇上台風。第一次去日本旅遊時遇到了當年的最強台風——第21号台風“飛燕”,關西機場都變成了孤島,害得自己沒能按時回國。做交換生的時候,機場快線和大巴都因為台風停運,一行人剛到日本就在成田機場裡被困了八個多小時。最後我成功領到了機場分發的救濟糧。現在回想起來,那個壓縮餅幹的味道還真挺不錯。

日語專業未來職業規劃(從日語專業出發)1

在成田機場領到的“救濟糧”

2019年,有幸被學校選送去東京都的杏林大學做交換生。我是旅遊愛好者,所以這一年與其說是交換留學更像是長期旅遊。怎奈日本路費很貴,為了節約資金隻好對夥食費開刀。在日本這一年裡瘦了40斤,絕對是我在日一年最值得驕傲的事。記得當時主要就吃食堂和食其家(SUKIYA),幾乎每天都要說“來一份普通碗牛肉飯,再單點一個沙拉”,這句日語好像刻進了DNA。吃牛肉飯吃到走火入魔,差點畢業論文要去研究牛丼連鎖店的海外推廣。

日本有句諺語:“男子漢跨出門就有七個敵人”,講的是人一旦進入社會就會遇到不少壞人。我總想把這句話稍微改寫一下,變成“男子漢跨出門就有七個朋友”。這個世界上壞人不少,但是樂觀點思考,大膽地“跨過門檻”走出去也能遇到很多朋友。我在日本就有一位忘年交,她叫K桑,已經是個老奶奶了。K桑每年都要找中國人留學生學習中文,也不知道從何時開始總之“代代”相傳。上一屆的學長正要回國,我就把這個小傳統繼承了下來。

我和K桑約定每周六早上在市役所門前的ガスト餐廳見面。去的路上還是有些緊張,我對自己的日語也不大自信,不知道和她聊點什麼好。幸好見到K桑之後,生熟和疑慮消解得很快。她是個很典型的日本老太太,非常和善。一舉一動,說話用詞都溫文爾雅。75歲的她生活仍然非常充實,總把自己的日程排得很滿,平時會去健身房練習乒乓球,還會專門跑去漢語教室學中文。

K桑每周都會在網上找一些中文新聞來讀,她把不明白的地方用熒光筆畫出來問我。遇到用日語不好解釋的地方,K桑見我面露難色,還會給我鼓勁兒:“加油,試着說出來!”不知不覺,和K桑一起學習成了我每周六的固定事項。

日語專業未來職業規劃(從日語專業出發)2

回國前和K桑的合影

2020年4月,新冠肺炎疫情愈發嚴重,東京發布了緊急事态宣言,隻好終止了和K桑的周末學習會。後來就隻在夏天回國前見過K桑一面。她還送給我東京奧運會圖案的T恤,一邊笑一邊說:“我不清楚小朱該穿什麼尺碼,總之買了最大号。”現在每當穿上這件衣服去健身房,都能想到那一年的周六之約。

日語專業未來職業規劃(從日語專業出發)3

東京都與神奈川縣分界處

本想好好體驗一下日本大學生活,結果因為疫情後半年都是在上網課,有點“半途而廢”。不過一點也不覺得遺憾。因為在這特殊的一年裡,自己有幸恰好身在現場,駐足觀看并可以說是大飽眼福——響應“外出自肅”号召每天在家做飯,廚藝大有精進;疫情期間為了減肥每天跑步,才在仙川邊欣賞到了迄今見過的最美夕陽;騎車鍛煉,在風和日麗的上午一口氣騎到了東京都和神奈川的縣界邊——一年裡從眼前掠過的這些風景,都镌刻在腦海中,一輩子難忘。

日語專業未來職業規劃(從日語專業出發)4

夕陽下的富士山

海德格爾有句名言:“語言是存在的家。”依我看,學習日語為我打開了一扇新世界的門。用海德格爾的說法,可以說是在我的心裡搭起了一處“新居”。回想在日語專業的幾年,說是命運的捉弄也好,還是想和那個被單詞和語法折騰得夠嗆卻堅持沒放棄的自己,說一聲謝謝。

日語原文

日本語學科からもっと広い世界へ

朱柄丞=文

日本語學科に入ったのは運命のいたずらだといえよう。第一志望と第二志望に全部落ちて、滑り止めの日本語學科に入ることとなった。正直、高校時代の私は日本に対して日本料理ぐらいしか興味を持っておらず、大學1年生の時に日本語をイロハから勉強し、五十音図すら一苦労だった。勉強し始めた頃は丸暗記するしかない資料がかなり多く、1冊目の教科書に書かれていた「日本語の勉強は日々の努力の積み重ね」という言葉は今も鮮明に覚えている。

大學の授業で先生が見せてくれたNHK番組「ドキュメント72時間」には大きな衝撃を受けた。日本という國で起きるさまざまな人間模様を見ることで彼らの喜怒哀楽に共感し、日本語を學ぶ心境が変わった。その時はいつも文法に苦戦していたが、言語を身に付けて日本に住む人々の生活を理解するという目標が心に根を下ろした。

しかし、日本との出會いは順調とはいえず、しかもよく台風と関係した。初の日本旅行は関西國際空港を孤立させた台風21号と遭遇して予定通りに帰國できなかった。留學でも到着時に台風の影響で東京都心部につながる電車が運休となり、空港で8時間以上待たされた。けれども、その時に空港側から非常食としてもらったビスケットはおいしかったものだ。

2019年、交換留學生に選ばれて東京都の杏林大學を留學先に決めた。しかし旅行が大好きな私は、交換留學というより観光旅行が目的だった。交通費のために食費を浮かし、1年間の留學で一番誇らしいことは、20キロ瘦せたことだ。行きつけの店は學食とすき家で、「牛丼の並盛と単品のサラダ」が口癖になるほど何度も注文をした。卒業論文のテーマに「日本の牛丼チェーンの海外進出」を本気で考えたが、結局別のものを研究した。

日本には「男は敷居を跨またげば七人の敵あり」ということわざがある。社會に出て活動するようになると多くの敵と出會うことのたとえだが、私は「敷居を跨げば七人の友あり」に書き換えたい。私からすれば、世の中には悪い人が結構いるものの、プラス思考で考えれば優しい人と出會う可能性も高いのではないかと思う。交換留學を機にできた友人の中でも、Kさんというおばあさんはとても印象的だ。いつ始めたか分からないが、三鷹市に住むKさんは代々の中國人留學生と長年交流を深めてきた。私は帰國直前の先輩から中國語の勉強に熱心なおばあさんのことを教えてもらい、次のパートナーとなった。

土曜日の朝に會うことを約束して、緊張しながら市役所の隣のガストに向かった。當時はまだ日本語で交流する自信がなく、何を話したらいいかぼんやり考えていた。ところが、全ての不安がその場で消えた。Kさんは話し方と振る舞いに上品さが感じられるとても優雅な人だった。75歳になってもスケジュールをぎっしり詰め込み、卓球を練習したり、中國語教室に通ったりして充実した生活を送っていた。

Kさんは毎週、ネットでまとめた中國語の記事を印刷し、分からないところに蛍光ペンを引いて私に聞いた。説明しづらい箇所に遭遇すると、「出來るだけ頑張って」といつも私を勵ましてくれた。いつしか土曜日のガストの相互學習は私の留學生活の定番となった。

殘念なことに、交換留學の後半に新型コロナウイルス感染症の流行で初の緊急事態宣言が発令され、自粛生活を餘儀なくされた。その後、帰國するまでKさんとは一度しか會えなかったが、東京オリンピックのTシャツをもらった。「朱さんのサイズがよく分からなかったから、とりあえずビッグサイズにした」とにこにこ笑っていた。これを着てジムに行くたびに、ガストでの思い出が浮かぶ。

日本の大學生活を十分體験したかったのに、新型コロナのせいで春學期は寮でZOOM授業を受けざるを得なかった。しかし私は中途半端な留學だったと思っていない。日本にいたからこそ楽しめる風景をちゃんと見つめられた1年だったと思う。自粛ムードで自炊するしかなかったので料理の腕が著しく上がった。薄明に鮮やかに染まった仙川と神奈川県県境までのサイクルツーリングが、私の思い出にずっと殘る光景だろう。

ハイデガーの名言「言葉は存在の家である」はとても理解できる。日本語を學んだことは私にとって新しい世界への扉を開き、もう一つの居場所をつくったといっても過言ではない。歩んできた道を振り返ってみると、文法と単語との戦いに諦めず勉強し続けた當時の私に「ありがとう」と言いたい。

(作者:朱柄丞,畢業于東華大學日語系,明年春即将入讀日本關西大學社會學研究科。)

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